10月6日 物語を語る 過去のねつ造

:内田樹先生ブログ 「En Rich」のロングインタビュー

http://blog.tatsuru.com/2012/10/05_0839.php

氣になる文章ー破局的な事態が起きたときに、対処の仕方には二通りのものがあります。一つには真相追求、有責者の特定。「誰のせいだ」という問題のとらえ方。でも、もう一つ伝統的な方法があります。それは「物語る」ということです。何か忌まわしい事件があったとき、そのときほんとうは何が起きたのかを当事者自身の口から語らせること。「供養」するというのは、このことです。
起きてしまったことはもう取り返しが付きません。でも、物語を語ることを通じて、失敗事例を学び、死者を弔うことができる。今のメディアがやってるのは、どう考えてみても供養ではありません。誰かを血祭りに上げて、血の匂いで酔いしれて、不安を忘れようとしている。
氣になる文章ー武道でも繊細さと剛胆さは同時に要請されます。刀で斬る場合なら、鋭利なメスで切り裂くような精度の高い斬りと、巨大なマサカリを振り上げて、畳も根太も叩き斬る豪放な斬りの二つを同時に行うことが求められる。そんなこと言われても、こちらはどうしていいかわからない。でも、不思議なもので、脳で身体を統御することを諦めると、思いがけない力が発揮される。方程式では解けない問題を身体が解いてしまう。
責任なんて、結局誰にも取れないんです。失敗して、何かが致命的に失われた場合、時間が過去に戻らない以上、起きてしまったことは取り消せない。
だから、責任というのは本来予防的な概念なんです。事が起こった後に「誰が悪いのか」を言い立てるためにではなく、悪いことが何も起こらないようにするために、「何か起こった場合は自分が罪を被る」と宣言しておく。その誓言によって、起きたかもしれない災禍を未然に防ぐ。こういうのを遂行的っていうんです
武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。
氣になる文章ー集団もそうです。メンバーの中の「弱い個体」を守るために制度設計されている集団は強い。「強者連合」集団は強いように思えますが、メンバー資格のない「弱い個体」を摘発して、それを叩き出す作業に夢中になっているうちに、集団そのものが痩せ細ってしまう。
どこで、何が起きても生き延びる。それが武道修業の目的です。武道的な意味での「敵」とは、自分の生きる力を殺ぐものすべてがカウントされる。天変地異も、病気も老化も家庭不和も仕事上のトラブルも、全部そうです。どれも自分の心身のパフォーマンスを損なう。それがもたらすネガティブな影響をどう抑止するか。それが武道的な課題なんです。
経済力があっても軍事力があっても、それだけでは国民的な誇りは持てません。誇れるのは伝統的な文化だけなんです。それだけは金で買えないし、暴力でも奪えない。
それが日本にはある。それだけが国民的な誇りの足場なんです
氣になる文章ー学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。

:「売る」と「売れる」境界線のコミュニケーション力 集中できない大人たちに売る電子書籍のかたち

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120919/236997/?P=1

氣になる文章ー一方、集中できない私たちに最適化された魅力的なコンテンツ。これから私たちは、それらコンテンツを短時間で消化していくコンテンツ・ホッピングを繰り返す毎日になる。そのなかでこれ以上集中力を絶やさないようにするには、スマートフォン、パソコン、ゲームと決別しなければ不可能である。
これらと決別した生活、それはネット以前の生活だ。しかしいまとなってはもう戻れない。であれば、アルコールを抜く休肝日のごとく、休ネット日を適宜入れた生活をしていかなければならない。そう、大人なんだから時間管理は自分でやらなければならないのだ。

:「売る」と「売れる」境界線のコミュニケーション力 新商品企画。何もない段階からテレビCMを発想 iPhoneで実感する「“百文”は一見にしかず」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120927/237348/?P=3

氣になる文章ー売れるモノは、まず最初に生活者とのコミュニケーションを図る。だから製品を作る前に考えるのだ。だからといって生活者に訊いてはいけない。「あなたはなにが欲しいのですか?」と訊いて、この世に存在しないモノを的確に応えられる人などいないのだから。
製品を企画すべき人は、自分の感性を磨くしかない。人々はなにを欲しているのか? 現在の生活に足りないものはなんだろうか、不便なことはないだろうか、と日々考え、それを解決する手段を具現化していけば、ある日それはカタチになる。そう信じて感性を磨くしかない。

13の論点 「格差是正」という言葉に潜んでいる不平等が分からない人たち 弁護士の伊藤真氏に聞く「日本の選挙制度」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20121001/237501/?rank_n

氣になる文章ー【選挙制度】をテーマに弁護士の伊藤真氏(伊藤塾塾長)と対談を行いました。伊藤氏は、1票の不平等の問題をスタート地点の置き方によって解決の方向性が違うと語り、「1票の格差」という票数に差があることを前提にした議論を否定しており、人は皆同じという立場で「1人1票」の絶対平等を唱えています。
対談の中で、国会議員の定数削減についても「国民に向けてアピールしているようで、実際は、自分たちが仕事をやっていないぞということを自白してしまっているようなものです。」と指摘し、定数削減は立法権を縮小することになり、行政監視という国会の重要な役割を果たす力が縮小されてしまうと警鐘を鳴らしています。
「いろいろな価値観の人がいて、そのせめぎ合いの中で、世界の趨勢は民主主義という制度にしていくべきだという方向で来ている」と伊藤氏は語っています。選挙制度は民主主義が成り立つための仕組みであり、民主主義に対する理解の違いにより、制度の在り方に相違が生まれます。来たる衆院選に備え、読者自身が選挙制度、ひいては民主主義を見つめなおす機会となれば幸いです。

押井守監督の「勝つために見る映画」 過去を変えられる、それが人間の能力です「さらば箱舟」(1984年 寺山修司監督)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20120925/237238/?P=1

氣になる文章ー押井:過去のねつ造なんて、実はみんなやってるし、別に珍しくもなんともないんです。だけど若いほど過去に価値を見いださない。 なぜでしょうか。
押井:それはつまり「今」に値打ちを感じてないということです。だって、今というのは過去の上にしかないんだから。今を充実させたいというか、「今」にある種の自由を獲得したいからこそ、自分の過去をねつ造するんだよ。
氣になる文章ー養老孟司は「人間は物理現実なんか生きてない」とはっきり言ってますよね。「目の前の他人と自分が同じ現実を生きてるんだという話は、科学的には証明不可能。人間は脳で生きてるだけだ」って、あの人の言うことはそれに尽きるんだよ。全部脳内現実にすぎないんだと。
氣になる文章ー過去というのは「今生きられている『過去』」でしかないんだから。純然たる過去とか客観的な過去なんてどこにもないんです。そういう意味で言えば未来も過去もねつ造自由、やりたい放題。要するにあるのは「今」だけなんです
氣になる文章ー寺山修司の映画はいっぱいあるけど「さらば箱舟」は集大成みたいな映画だから、「寺山修司の映画を見てみたい」という人には一番わかりやすい。おすすめです。さっきから言ってるような「過去は作るものだ」というコンセプトで貫かれた映画です。
あとは随所に彼が作った詩(うた)が読み込まれてるんで、そういう意味では入門編でもあると。集大成の映画でありながら入門編になってるという面白い映画。お金もかかってるし。

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